韓国は毎年、「伏日(土用の丑の日)」が近づいたら犬肉の食用問題に対する議論が起こる。
特に昨年12月から政府の「犬の食用問題議論のための委員会」が開かれ、
今年6月には犬の食用終息に対する結論を出そうと動いていた。
しかし、結局結論が出せず運営を延長することを決めたため、
世論は今年の「伏日」にさらに敏感に反応している。
韓国は朝鮮時代から既存の宗教だった仏教を排斥し儒教を受け入れ、
日本とは異なり肉食を受け入れる時期が早かった。
韓国は農業手段として多く使われた牛が最も大衆的な肉類であり、
豚と羊そして鶏のような家畜が食用の代表的な肉類だった。
犬も多くの世帯で飼う家畜だったが、最初から食用を目的に育てられたわけではなかった。
韓国は昔から大陸の侵略が頻繁で多くの戦争と略奪を経験し、
その度にいつも食べ物がなくて飢え死にする状況が来れば犬を捕って食べることにも
何の罪悪感を持つ理由はなかった。
犬の肉質は人間のそれとかなり似ていると知られ(栄養学的には他の肉と大差がない)、
タンパク質を消化しにくい病人や気力のない老人にも食べれる肉類と認識されてきたので
普遍的に食べられる肉ではないが、そのような状況の人々には推薦される特別な肉であった。
日本の「土用の丑の日」にうなぎを食べる風習が残っているように、
韓国も夏に暑さで気力が落ちる節気として知られる「伏日」になると、
この犬肉料理の「保身湯」と鶏料理の「参鶏湯」を食べる風習が昔からあった。
なぜ犬が保身のイメージになったのかというと、歴史学者たちも多くの意見を主張しているが、
ほとんど共通した部分は最も簡単に手に入る肉だったということだ。
もちろん牛や豚があるが、牛は夏の農業のために必要な家畜であり、
豚は育てる期間が長かったため、村の人たちが皆集まるお祝い日のように本当に必要な時しか獲れない
貴重な家畜だったためだ。
それに比べて利用価値の少ない肉類なら、犬と鶏がそれに属していただけだという主張だ。
問題は食べ物に溢れる現代社会になり論難が台頭した。
昔のようにあえて犬を食べなくても他に対処できる肉が多くなったということだ。
また、以前のように犬を家の外で育てる家畜ではなく、
家の中で家族と一緒に過ごすペットに変貌し、多くの愛犬家が犬を食べる人々を非難し始めた。
自分が飼っている犬を捕まえて食べるわけではないが、
自分が家族のように接する犬の同族を食べる行為に敵対感を見せるようになったのだ。
これは犬と共に家で育った若い世代では理解できない旧世代の食文化だと受け入れ、世代葛藤の要因にもなった。
(実際、韓国の老年層は相変わらず犬と一緒に寝る行為や犬をベビーカーに乗せて移動することに理解できない反応である)
韓国政府でも犬をこれ以上食用にしなくなった西側諸国から非難の対象になることを認識し、
1986年アジア大会と1988年ソウルオリンピックの開催が決定されてからは
大通り沿いの「保身湯」専門食堂の開業を禁止し、大々的な認識変化に乗り出すようになった。
このように80年代から始まった犬肉禁止論議は30年間続いてきており、
賛成と反対の論争の中で依然として結論が出ない問題の一つだった。
犬肉の食用に反対する立場は法的に衛生管理ができない肉類であり、
家族のようなペットを食べるのは非倫理的だという意見だ。
これに賛成する立場は昔から食べてきた一つの文化に過ぎず、
牛や羊のような他の家畜を食べるのと変わらないということだ。
もちろん、だからといって賛成する立場の人々がほとんど犬肉を食べるわけではない。
一つの文化として食べたい人だけがちゃんと管理された肉類で食べれば、
あえて犬肉食用を法で禁止させるほどではないという立場が殆である。
実際、韓国で犬肉を食べる人はほぼいないのが現実だが、
この論難に対する2021年に実施したアンケート調査(848人回答者対象)によれば、
犬肉食用禁止に賛成する人は12.5%に過ぎず、反対はなんと75.5%に達した。
結局、自分は食べないけど犬を食べられないように法律で定めることは
理解できる範囲を超えるという結果として受け止められているのだ。
議論が始まって30年が経ち、これに対する社会的認識は犬肉を食べない文化に変わっていくのは確かだ。
犬肉料理を扱う食堂はますます見えない路地の奥に消えつつあり、
食べ物があふれる現代社会で犬肉よりも高い栄養と味を誇る食べ物があふれている。
犬肉を扱う専門市場は全国に1ヶ所だけが残っているだけで、
今は食堂で犬肉を必要としても不法な屠畜をするところを探すしかないほど衰退した食文化になった。
私の両親は犬肉を食べる方であり、
私が幼い頃から犬が好きな子供だったので犬肉を牛肉だと騙して食べさせたりした記憶がある。
犬肉が食卓に上がってくるのは1年に数回ない特別な日だけだったが、
年を取って犬肉を区別し始めた時からは私が食べないということを知ってからは無理に食べさせようとはしなかった。
今は亡くなった父親は癌で10年余り闘病した。
正常な肉類を摂取できない入院生活で父親にとって犬肉は特別なステミナ食だった。
それで嫌だが犬肉料理をテイクアウトしてくるおつかいをしていた記憶が依然として残っている。
私はまだ「保身湯」を食べようとする気は少しもないが、
なかなか目撃さえする機会もなくなった「保身湯」の話を聞くと、時々父のことが思い出される。
食べ物とは人それぞれその味の評価が千差万別だ。
その理由は、その食べ物を食べた時にお腹が空いていたのか、気分が良かったのか、
誰と食べたのかなどの雰囲気がより重要に作用し、味が記憶に定着するようになる。
もし、ある70代の老人は犬肉を食べる度に自分の人生で最も祝ってもらった、
または良いことがあった若い時の記憶が思い出されるかもしれない。
ならば、その老人は犬肉を食べるのではなく、その思い出を食べることなので、
私が犬肉を食べないからその老人を非難する理由はない。
韓国ではすでに珍しい鯨肉や馬肉を日本人が食べるのを見て、
韓国人が食べないからあえて非難する理由はないということだ。
しかし依然として韓国は論争の中にある。
私を含む大部分の人々が犬肉を食べていないが、
意外と犬肉の禁止法反対に75%を占めるという回答は何故か安心させる。
その75%が皆同じ考えではないだろうが、自分と違う考えをする人を敵対視せず尊重しているかもしれないと考えると、
この論難が長くなることにも価値があると感じられる。
また、どうせ犬肉を食べずに育った若年層が後で年を取る時には、
彼らに犬肉に対する何の思い出もないだろうから、おそらく自然にこの論難は消えるかもしれない。
需要がなければ供給は自然に消えるのが最も基本的な経済論理ではないか。。。